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第5回 「アトランティスの前世でも、インピーダンス装置に似たものを作っていたようなんです」
その頃はまだスピリチュアリティに関心が高かったようですが、その中田さんがインピーダンス装置を作るようになった経緯は何だったんですか?
30才になっていた頃だと思いますが、その頃になってアメリカには、ケイシー療法に使用するマッサージオイルだとか、本に出てくるハーブ類を扱っている会社が存在していることを知ったわけです。特に「超能力の秘密」に紹介されていた「アトミダイン」に興味があったので、林さんに頼んで取り寄せてもらおうとしたんですが、彼がなかなか手続きをしてくれないので、結局は自分で英語で手紙を書いてアメリカから取り寄せたりしていました。

そのうち、ケイシーのリーディングに出てくるインピーダンス装置の作り方を知って、読んだとたんに「これは面白い!」とピンとくるものがありました。特に水で冷やすとエネルギーが発生するところに強く惹かれました。構造は非常にシンプルですから、これなら自分で作れると。それでさっそく材料の調達を開始したわけです。今から35年前。1977年頃のことでした。
そうはいってもインピーダンス装置の材料は特殊ですし、大量生産をするものではないですから、材料を見つけるのは大変だったんじゃないですか?
材料というのは主に炭素板、炭素鋼ですよね。当時はまだサラリーマンをやっている頃で、御徒町に勤めていたんですが、勤務先のすぐ近くに炭素板を扱っているところが見つかりました。ちなみに、そことは今でもおつきあいがあります。炭素鋼は、私は小岩生まれで、小岩の町内に金属の加工工場があったことをなんとなく覚えていて、そこのおじさんに「こういうモノを作ってほしい」とお願いしたら、炭素鋼を取り寄せてくれて寸法通りのものを作ってもらえたんです。ガラスや炭といったものはすぐに入手できますから、材料がそろえば、すぐに制作に取りかかれました。
装置に必要なもの全てが近くにそろっていたわけですね。人生には無駄はないですねぇ。まるでケイシーに導かれていたかのよう。ところで、サラリーマンというのはどういうお仕事をされていたんですか?
髭剃りで有名なブラウンという会社で修理を担当していました。実は、家業が散髪屋で、最初は理容師になったんです。でも、子どもの頃から何かを作ったりいじったりするのが好きだったので、理容師を辞めてサラリーマンを選んだんです。

で、材料がそろったので、いよいよインピーダンス装置の制作を開始しました。最初の2年間くらいは、作っては人に試してもらい、作っては人に試してもらいを繰り返していました。ご存じのようにインピーダンス装置は、人の微細なエネルギーレベルを扱う装置なので、劇的な体感なんてそれほどすぐには分からないわけです。それでいろんな人に使ってもらって「どうだったか?」「何か変化はあったか?」と聞きながら作り方の精度を上げていきました。

そのうち、林陽さんがこの装置を商品化して会員さんに売りたいと言い始めたんです。そう言われると自分としても「よっしゃ」と制作にも力が入り、いっそう一所懸命に作り始めるようになりました。会員さん向けでしたが、かなりの数の装置が売れたと思いますよ。珍しい装置ですし、ケイシーが勧めたものでしたから一人が使えば、その友達や家族の方も使い始める・・・みたいな感じで。それでそのうちサラリーマンでいるよりこっちの仕事のほうが面白くなり、34才で会社勤めを辞めてしまいました。
私もテンプルを始めたのは34才でしたよ。
菜央子さんは、銀行勤めでしたっけ?
いえいえ、親が私に銀行勤めをさせたがったんです。銀行とか公務員とか、堅い仕事について欲しいと。うちが自営業で苦労したのと、兄が公務員を辞めてケイシーの研究と翻訳家になってしまったので、よけいに福利厚生や収入の安定している仕事をして欲しかったんでしょうね。でも性格的に合わないんです、そういった堅い仕事は。
お互い、アウトローですからね。私の場合はインピーダンス装置がそこそこ売れていたんで、これだったら何とか生活ができるかなと。それからケイシーはリーディングで様々なジェムストーン勧めていますよね。それでケイシーが勧めた鉱石も一緒に取り扱うようになりました。

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