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  2. 21世紀に生きるエドガー・ケイシーの教え
  3. 第9回「自分が大事にしている曲と同じように、何かオリジナルな曲を一曲でも作ったことありますか? それを人生でやりなさい、ということ。僕は神戸元気村での7年半では、そういうことをずっとやってきた。」

第8回 「真実の自分になる」ということが、コーチングをはじめとして、私の全ての仕事でやっていることです。
次に福井の重油流出のときのエピソードを伺っていいですか?
この時のことは、ちょうど今、文章で書き残そうとしている。

長い話になるけど、最初事故に気づいたのはNHKのニュースを見ていた時だったと思う。正月早々のニュースで、山口か島根県沖でロシア船が荒波にもまれ、破船したという内容だった。詳細は忘れてしまったけど、ニュース報道で、おそらく北陸の三国の海岸にその船は漂着するであろうということが分かったので、そこに向かった。

到着してみると、ナホトカ号はまだ沖合3キロくらいのところにあり、ヘリコプターは上空を飛び交い、巡洋艦が2隻、その船を挟んでいた。見ていると、だんだん船が岸に近づいてきているのが雰囲気で分かった。何故分かったかというと、その時流れた『C重油』が大きな玉になって飛んでくるんだわ。風で吹き飛ばされて・・・。10分岸に立っているだけで身体中が重油で真っ黒になったほど強い波風だったから、船がだんだん岸に寄って来るのを感じた。岸近くの家々も油でだんだん真っ黒になってきていた。

僕は海辺の小さな公園みたいな、原っぱのような何もない場所に立って、ずっと3キロ先の海を見てた。すぐそばに、おばあちゃんみたいな人が一人立って、泣いているように見えた。その人に声をかけて「役場はどこですか?役場に挨拶に行ってくる」って聞いたら「役場なんて行かなくていいよ、あそこにいるのが町長さんだ」と、30メートル脇でずっと海を見ていた男性を紹介してくれた。

それで『こうこう、こういうわけで今駆けつけてきた。しばらくこの土地を貸してほしい。全部とは言わないから一部でいいからプレハブを建てて仮事務所のようなものを建てたい。早い人は明日には駆けつけてくると思う。そうなったらそういう人たちをコントロールしていかないと地元が大変になってくる』と伝えた。そしたら町長さんはすぐに土地の利用を了承してくれ、必要なことがあれば何でも遠慮無く言って下さいと約束してくれた。

その後すぐに日本財団に電話した。日本財団に黒沢君という人がいて、彼は確か神戸のときには元気村を一番支援してくれた人だと思うけど、町長に承諾をもらった後すぐに彼に電話して、プレハブを3つ建ててくれるよう頼んだ。3つのうち2つはくっつける。電話は6回線、あとコピー機やら何やら必要なものを1日で調達して明日には着くようにと頼んだ。もちろん彼はそれをやり遂げる人で、僕と似たところがある。お正月のニュースですぐに自分の出番が来るということが分かっていた。そしておそらく出てくるのは僕であろうということも予想していた。そういう体質の人間なんだ。これだけ大勢の人間がいるのに、彼だけなんだ。もちろん翌日には全て必要なものが立ち上がった。

町長に挨拶したとき、もう1つ別の流れで、地元の区長さんにライオンズクラブかロータリークラブか青年会議所か、今日、会合を持つ団体がないか探してほしいと頼んだ。そしたら今日、青年会議所が三国で一番大きなホテルで会合を持っているからとそこに連れて行ってくれた。

山の上のホテルに僕だけ真っ黒になって行って、ブルーシートを敷いてもらって入っていった。

そのとき、青年会議所が動きだそうとしていたのを町役場は断っていたらしい。もうちょっと待ってほしい、体制を整えないと何もできないし国ともやりとりをしているからと。そういうことが会合で決まっていた中、僕が出かけて行ってこう言った。「明日、事務所が出来ます」と。

「僕一人でもやろうと思えば出来る。50人ほどのスタッフだったら簡単に集まる。でもそうではなく、地元の人が自分たちでやって勉強をしてほしい。人の扱い方や動かし方、行政をどう動かしていくか・・・」 そういう話をしていったら乗ってくれて、次の日から事務所には地元の社長とか、社長の息子とかがガッチリ入ってくれた。白板と2トントラックが欲しいと言えば地元だからすぐに手配してくれ、そんなふうに全部が出来上がっていった。

ここからが文章に書きたいところなんだけど、これで1日目が終わったんだ。そこに防衛庁(省)の人間までが入ってきた。自衛隊と分からないようネクタイで自衛隊の配置状況なんかを調査しに来たいた。僕が動いているのを見て、事務所の手伝いから入ってきていた。途中から「内緒なんだけど、実は防衛庁の人間なんです。何でも手伝いますから」と言うので、それだったら事務所の内装全部を担当してほしいと・・・。そしたら机の大きいところに地図を貼り、その上にビニールをかぶせ、そこに今日は何人とか書き込めるようにしていった。彼らにしてみれば野戦の感じなんだろうね、そういうノウハウを教えてくれた。
そんなふうに全国からリーダー格の人間が集まってくれて「ワ~、出来上がった~!」「これは三国方式と呼ぶぞ~!」みたいなことを叫んだりしていた。

その日の最後のミーティングで、きちんと代表とか会計とか決めていこうということになって、その最初の挨拶はバウさんからって言うから「どうもありがとうございました。これで代表はおります」と1日目で代表を退いた。
あの時は、全国から集まった人たちと人の力で海に浮かんだ重油を掻き出したことが大きな話題になりましたよね。あれはそもそもバウさんがヒシャクで海の重油をバケツに入れ始めたのが発端になって始まったと聞いています。『ヒシャクで一杯』をバウさんがやったのは、いつのことなんですか?
それはプレハブが建つ前日。もう始まってんねん。
三国にはどれくらいの期間いらしていたんですか?
5ヶ月間。でも組織の中の会議はそのときだけ。会議する必要も感じないし、つまらない会議は僕には向かない。その5ヶ月間は、近くの越前水族館の赤ちゃんイルカを神戸の水族館に連れて行ったり、まぁいろんなことをしてた。
立ち上げたボランティア組織の中にはいらっしゃらなかったんですか。
そういうのは、それが好きな人がやればいい。みんなと一緒だと安心するという人がやればいいこと。人には向き不向きがある。僕は人と一緒だから安心というタイプとは違う。絶対僕にしか分からない仕事がある、ということが分かっていた。最初の1日だけは代表をやったけど、すぐに地元の青年会議所の代表に代表権を移した。
Youtubeに当時バウさんが三国で活動されている様子がアップされています。あれはいつのことなんですか?
⇒動画を見る(You Tube)
たぶん2日目。何故2日目かと言えるかというと、ヘリコプターに乗った日だから。日本財団がいつでも乗れるヘリコプターを用意してくれていた。民間でそんなん無いよ~。その情報をもとに各部署を動かしていったわけ。それは僕が代表で、ということではなく全くフリーの立場で。キャスターの筑紫哲也さんが「山田さんは、行政は後から着いてくると言っています」とコメントしていた部分があったけど、あのニュース映像の中で説明していたのは、三国ではなく、京都の青年会議所の人。別の部署を新しく作っている最中の話で、ひな形を作ったら、あとはどんどん出来る人にやってもらったらいいだけのこと。
神戸の元気村にバウさんが7年半も関わっていたというのは、希有なことだったんですね。
辞めたい、辞めたいと思っていたけどね。

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