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第10回
少し話を変えますが、欧米の家と日本の家の両方を見ていて、その違いや日本人の傾向、「こうすれば良いのにな」と思うことがあれば教えてください。
伝統的な日本家屋というのは、結構広々としています。とても良くデザインされていて、深い押し入れや何も無い空間があります。ですから多くの伝統的な家には家具も少なく、とても風通しの良い広々とした気持ち良さがあります。

残念なことに、現代的な生活をする多くの人々は、そういった広々とした空間に住んでいません。特に東京のような都会では、生活空間がとても狭くなってしまって、人々は人生をフルに楽しむために、その空間に入りきらない程の物を抱えて生活しています。ベッドが部屋に入りきらなかったり、家具がはみ出ていたり・・・。

日本は消費中心の社会ですよね。そうすると、とても小さい空間に住んでいる限り、欲しい物はすべて買えない、好きな物はすべて持ち続けるわけにはいかないことになります。多くの人にとっての課題は「欲しい物を持ちつつ、物理的に広々と気持ちの良い環境を手に入れるにはどうすれば良いのか?」というものです。大抵の場合、空間を選ぶのではなく、物を持つ方を選んでいます。北米では日本や東京の東洋的なデザインというのをスッキリした感じで表すので、これほどまでに物でいっぱいだとは想像していませんでした。

日本人はなぜ物を抱え込む傾向があるのか。そこには多くの理由があると思います。ひとつにはその消費中心の社会というものがあり、もうひとつには国民性とも言える、過去や伝統の豊かさを愛しむ気持ちがあって、それが過去に起こった出来事を懐かしむことに繋がっています。

よく「私の大切な思い出」とか「私の幸せな思い出」と言っているのを耳にしますが、人々は過去の幸せな思い出に浸り続けようと物や写真にしがみついているので、結果として「今」や「未来」を楽しめず、新しい幸せな思い出が作れずにいます。そしてその「幸せな思い出」が「幸せな今」に取り代わってしまうということがあります。

今の日本人にとっての大きな課題の1つは「どうやって過去とうまく付き合うのか」であり、過去を愛しみながらも、現在や未来にエキサイティングで面白い時間を過ごすことです。これは短期的には自分の人生の中の出来事について、文化的、伝統的には「どれくらい、そしてどのように伝統と過去を尊重するのか」という課題と関わっています。

決めてください。自分は伝統のすべてを守りたくないかもしれないし、伝統の中には、今の自分のライフスタイルに合わないものもあるかもしれない、と気づいてください。

日本の伝統のひとつに、あまり語られない事実ですが、両親の寝室で子供が一緒に寝ている、というのがあります。結構大きくなるまでです。子供が10才、またはそれ以上になるまで親と寝ているのが見られる国は日本だけです。G8のような世界的な影響力を持つ先進国の中で、添い寝が文化の一部になっている国は他にありません。

歴史的に、人々がとても寒い、すきま風の吹く小さな家に住んでいた頃には意味がありました。そんな環境では、全員が揃って寝る意味がありました。現代的な家では、これは意味がありません。過去にやっていたから今もやっているのであれば、「これは私の役に立っているかどうか」と常に考えると良いと思います。「私はただ、これが今までのやり方だから、この伝統を守るのだろうか?」と問うのです。

一方西洋では、親がある意味、子供との絆をさほど強く感じないために、子供が小さい時から別の部屋に寝かされている、という事実もあると思います。このことによるネガティブな結果も存在するかもしれません。私は西洋的なやり方をそのまま、誰もが目指すべきものだとは言いません。ただ、どんな時も、私たちは異なるやり方を知ったあとで「どんな風にスタイルを組み合わせられるだろう?」と考えて決めるべきだと思います。二つの異なるやり方の豊かな部分を取り入れて、新しいやり方で何が得られるか、やってみてはどうでしょう?

私がこの寝室のことを考えさせられたのは、ある離婚したてのクライアントが、ボーイフレンドが欲しいと言っているのに子供を同じベッドに寝せていたからなのです。このことを論理的に考えると、誰のためにもならないことが明らかです。ボーイフレンドのためにもならないし、母親のためにもならない。もちろん子供のためにもなりません。この事実に気づかなければなりません。このクライアントは「あぁ、その通りですね。これでは、誰にとっても良い状況とは言えないですね」と気づいてくれました。

私は「あなたの文化」には問題がある、とは言いたくないので気をつけています。ただ単純に、もし何か別の結果や出来事を求めているのなら、「これは果たして私が求める結果をもたらすだろうか?」と自分がやっていることをよく見て、気づく必要があるのです。そして違っているのなら、別の選択をしなければなりません。

文化的な傾向と事実として、日本人は過去をとても敬い、歴史を強く敬うがために、疑問を抱いたり考えたりすることなく受け入れていると思います。これは時には素晴らしいものを生みますが、課題も生んでいると思います。

私は、日本のすべての人が同じ文化を共有しているところが大好きです。家に帰ると皆「ただいま」と言って、そこにいる人が「おかえりなさい」と言いますよね。これは素敵なことです。その国のすべての人が日常のある側面に対して、同じ認識を持っている。これは驚くべきだと思いますし、これは多くの国に欠けているもので、そのために他の文化では人々がばらばらになってしまっているのだと思います。

時に日本の文化においては、個人的なやり方に欠けていることが、他の結果をもたらしています。人々は自分のやり方を見つけようと思っていません。皆が「マイ・ペース」「マイ・ルール」など「マイ」あれこれ、と言葉では「自分の」とよく言うのに、多くの場合、自分のやり方で「行動する」ことはありません。人々は、「人からそうするであろうと期待されている行動」をとります。日本人は、歴史から豊かさを取り入れることができる立場にあると思います。日本人特有のユニークな世界の見方で、全体像を見ながら、他の文化から学んだことをそのままではなく、自分たちのやり方で取り入れて欲しいのです。

日本的な家に住みながら、アメリカ人のような消費主義者になるのは理にかなっていないと思います。残念なことに日本人が身につけた悪癖の多くは、アメリカ的なライフスタイルから来ています。

戦後、日本人はアメリカ文化から学び、アメリカ人のようになりたいと思ってきましたが、これはうまくいきません。私は、日本人がある意味、もっと日本人らしくなり、アメリカ人がもっとアメリカ人らしくなるのを見たいのです。アメリカ人とカナダ人がもっと日本人のようになって欲しいとも思います。日本人にも、ある意味もっとアメリカ人のようになって欲しい、それは他の文化のネガティブな側面を取り入れるのではなく、すべての文化のベストなものを取り入れて欲しいということです。

これで答えになっているでしょうか。

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