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  3. 第15回「自然な形での死の過程を経ていくと、その人がエネルギー体になっているというか、肉体よりも違うところに入っているような、そんな感じがしてきます。」

第15回
私がお手紙を受け取った方は、お祖母ちゃんが亡くなられたときに親戚一同がお祖母ちゃんのベッドの廻りに集まって「おばあちゃん、おばあちゃん」と声かけをしていたら、おばあちゃんがパッと目をあけて並んでいる人たちの顔を一人ひとりじっと見て、最後まで顔を見ながらフッと息をして亡くなったと。それは凄いぞと。そんなことがあるんだと感動しました。ずっと目を閉じていたおばあちゃんが、最後に目をあけて大丈夫・大丈夫、あなたも大丈夫と言っているかのごとく、繋がっているよという感覚があったなかで亡くなっていった・・・。
それはご家族にとっては何よりの贈り物でしたね。
良かったなぁと本当に思いました。いただいたお手紙には『みんなに囲まれて、最後にパチッと目をあけて廻りを見回してから息を引き取りました。まるでドラマのようでした。娘と一緒にお湯で身体を拭きましたが少しも汚い感じはしないのです。きれいにしてあげることが出来ました。亡くなる少し前、母に幸せだった?と聞いたら「ウンウン」と答えてくれました。何よりのご褒美でした。苦しい思いをさせなくて良かったです。母にとっては幸せな最期だったと思います』と書かれています。凄いなぁと思いました。

グループホームでお看取りをした方もそうでした。2~3週間前にいきなり私の顔を撫でながら「あなたも大丈夫、私も大丈夫」と。それまでは認知症がひどい方で「何よ、何しにきたの!」と診察拒否、血圧測定拒否をされる方でした。それが「あなたも大丈夫、私も大丈夫」と・・・。何が起こったのか、すごい愛を感じました。その人の本質が出てきたのかなと後から思ったんですけれど・・・。
看取り士』の育成に力を注いでいらっしゃる柴田久美子さんは、亡くなる方というのは最期、愛の塊のような存在になると。その方が生前受けた愛をそばにいる人にそのまま手渡して逝かれる。だからそばにいないともったいないのよと言われていました。私は両親が亡くなる時、そばにいることができなかったので、もったいなかったなと思います。

とはいえ、人生の最期を病院で迎えると、すでに肉体は亡くなる過程に入っているのに、病院としては1日も長く患者に生きてもらうのが使命ですから、生きさせるための薬の投与や点滴がされてしまうことが多いですよね。医療行為が、人としての自然な死の過程を踏まなくさせるものになってしまっている気がします。家族としては「こうしないとお父さん亡くなってしまいますよ」と主治医に言われると「だったらして下さい」となってしまいますよね。家族としてはどうしたらいいんでしょう。もちろん本人がまだ元気なうちにどういう最期を迎えたいのか話し合っておければいいんでしょうが。
ご家族はなかなか決められないですよ。今の日本で、お祖父ちゃん、お祖母ちゃんをご家庭で看取ったという人はほとんどいないと思います。人が死ぬってことがどういうことか知らない状況で私達は生きてきてしまっている。『お祖母ちゃん亡くなったよ、病院で』と棺桶に入っている姿を見ている。そういう場面がほとんどだと思います。だから、人が死んでいくという実感がない中で『死んでしまいますよ』と言われたら『生かして下さい』ということになってしまいますよね。でも死は自然なことであり、お祖母ちゃんは肉体的に死んでしまうけれど、お祖母ちゃんがいたからこそお母さんがいて、お母さんから私が生まれたという繋がりのエネルギーは全く切れていないわけです。また自分が妊娠して子どもが生まれ・・・。
命は続いてますよね。
肉体は終わるけれども、お祖母ちゃんの特質や個性は遺伝子的に残されていくわけです。ですからお祖母ちゃんが完全に消滅するとか、存在しなかった、ということではない。そういうことが感じられなくなってしまったなぁとは思います。それとともに死んでいくことを見ながら『では、生きているってどういうことだろう?』。そんなことを考える機会を奪われてしまったかなと思います。死ぬと、地球上で行われているような行為はできなくなる。それを対比しながら生きることを考える。そういうことをしなくなってしまったから、生きることそのものが辛くなってしまったのかなぁと思います。

お祖母ちゃん、お祖父ちゃんの生き様を見せられると、自分は生きているってことを肌で感じるし、考えさせられる状況になります。泣きながら怒っていても『生きている!』『これでいいじゃん』って。物事がうまくいかなくて、うわ~って泣いていても『これっていいじゃん』って思うんですよね。
生きているからこそ感じられることですしね。
そうそう。それもありじゃんって。もう、どうしようもないってことがあるじゃないですか。本当は外来がやりたかったけれど、いつのまにか在宅担当になり・・とか。そういう自分ではどうしようもないことも、それまではもがいて、力ずくで自分でなんとかしてやるんだって思っていたことも、なんとなく力が抜けて、これもありだよね~って思えるようになりました。生きているからこそ、そんなことが起き、死後の世界ではきっとこうはならないんだろうなぁと思うんですよね。
ジタバタするのが地球の人生。
そうですね。そんなふうに思えるようになりました。

在宅が凄いってことではないんですが、交流会やクリニックで行っている公開講座などでお話させていただく機会も増え、以前の私だったらやらなかったこともさせていただいています。生きるための医療ももちろん必要ですが、人生最期のための医療がもう少し拡がっていけばいいかなと思います。
昔、姥捨て山ってあったじゃないですか。親を捨てるのとは違いますが、自分の死を覚悟して自分で山に入り、自分で静かに死ぬっていうのも死の選択肢の1つとしてアリじゃないかなぁと思うんですよね。病院のなかで管だらけで死ぬよりも自然なことではないかと。犬や猫が自分の死を悟ったとき家を離れてどこかで死ぬように、人間にもそういう世界観が許されるところがあってもいいんじゃないかなと思ったりします。もちろんこれは自殺ということではなく、自然の摂理、命の循環として死を感じたとき、ということが大前提になりますけど。
昔の人は死をそれぐらい真っ正面から受け入れていて、これが自分のタイミングなんだということを納得して山に入られたんだと思うんですよね。
もちろん、貧しい時代は口減らしということが大きかったとは思うんですが、生き物が持つ本能の1つとして、人間もそういった死に方ができる、受け入れられる社会だったら、死にまつわることって今とは全く違っている気がします。
それとは反対に、今は、本人の意志とは関係のない不本意な延命ということもあると思うんですよ。
延命にかかる医療費の問題もありますよね。すでに肉体は亡くなるという過程に入っているにも関わらず、ご家族の希望で延命という治療がされてしまう。そういった死を引き延ばすための医療費が一人あたり100万、150万円とかかってしまう。もしご家族が死を受け入る準備ができていたら、ご本人も無駄に苦しむこともなく、国の医療負担もずいぶん軽くなるのではないでしょうか。
死生観が日本の生活の中から無くなってしまった、ということが全てに繋がってきている気がします。

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