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  3. 第16回「臓器や組織、細胞、ウィルスからのメッセージを通訳してお伝えする」というのが、私の診療の特色といえるでしょうか。

第16回
山本 忍 氏
1958年千葉県生まれ。1986年東京医大卒業。1995年「医療と福祉を結ぶ」をテーマに、横浜市に建設された福祉マンションの一角に神之木クリニックを開業。いのちをひとつの全体性としてとらえるホリスティック医学の実践に取り組んでいる。日本ホリスティック医学協会理事。日本アントロポゾフィー医学のための医師会幹事。アントロポゾフィー認定医。また、福島県玉川村に拠点を置く「NPO法人マグノリアの灯」理事長として、2014年末にオープンした児童養護施設「森の風学園」の設立にも尽力。

神之木クリニック
今日は、ホリスティックな診療を行われることで有名な医師で、私の中ではダントツの不思議系ドクター、山本忍先生にお話を伺わせていただきます。

まずは、山本先生が医師になられたいきさつからお話を聞かせてくださいますか? 子どもの頃からの憧れの職業だったとか?
いえ、別に小さい頃から医者になることを夢見ていたとか、使命感を持っていたとかいうわけでは全くないんですよ。両親の強い勧めに従ってこの道に進むことになった、という感じでしたね。高3の時に複数の医学部を受験するんですが、これがことごとく失敗に終わりまして。結局その後4年間も浪人生活を送ることになってしまいました。親にはずいぶん長いこと人生の猶予期間を与えてもらいましたから、さすがにここまできたら医者になるしかないだろうと。
そうだったんですか(笑)。ご両親も相当気が長いというか、よほど山本先生にお医者さんになってほしかったんですね。
ええ。というのも、実は、もともと私というよりも父が医者になることに強い憧れを抱いていた人だったんですよ。父は農家の5人兄弟の4番目に生まれて、裕福とはいえない環境に育ちました。ですから、高校生になった父は医者になるという夢を抱くのですが、そのための学費など家からそう簡単には出ないということもよく分かっていました。それでも夢をあきらめきれなかった父は、私立は無理でも国立の医大なら学費が何とかなるのではないかという希望を見出し、日夜勉強に励んで国立の医学部を受験することにしたのです。ただしそれは「もし国立に受からなかったら、遠い親戚筋が経営していた商店の後継ぎに行く」という親の条件つきの受験でした。

倒産したお店の後継者が亡くなり、そこへ養子に行くというのは、人道的立場からと言う祖父の強い勧めとはいえ、若い父にとって過酷な道だったと思います。結局のところその受験は不合格に終わり、18歳の父は、泣く泣く商売の道に行くことになったんです。皮肉なことに、同時に受けていた私立の医学部には合格通知をもらっていたんですよ。
お父様はどんなに無念だったことでしょうね。
本当にそう思います。その後、父は「この先、家族がお金の苦労をしなくてすむように」と必死になって働きました。その甲斐あって生活に少しゆとりができるようになると、息子のうち一人は商売の後継ぎに、もう一人は医者にしようという夢を思い描くようになったんですね。
つまり、お父様は山本先生に青年時代のご自分の夢を託されたんですね。
はい。ですが、当時の私はといえばそんな父の真摯な想いとは裏腹に、自分がこの人生で何をするのか分からないままノホホンとした日々を過ごしていました。学業よりも毎日せっせと遊びに精を出すバラ色の青春を謳歌する浪人生だったんです(笑)。

でも、そんな私も20歳になった頃に「私は医者として生きていくしかないんだ!」とはっきりと自覚するようになります。人には色々な才能があると思いますが、私の場合、人と関わるという能力を医者の道に活かす、というのが役割なのではないかと。
どうしてそう思われるようになったんでしょう。何かきっかけがあったんですか?
20歳といえば成人する節目ですし、ちょうど私の自我が目覚める時期でもあったんでしょう。実際、浪人生活3年目にもなると、医学部受験の周りの友人達はどんどん合格していき、遊び仲間が一人減り二人減り……。そんな状況が重なってくるとさすがに「自分は一体何をやっているんだろう?」と考えざるを得なくなりますよね。そして、あれこれと自問自答しているうちに、それまで遊びほうけていた自分自身への悔しさがむくむくと湧き上がってきたんですね。

それからというもの私は今までのバラ色生活を返上し、一心不乱に勉強に励むようになりました。するとやはり努力は実を結ぶもので、ずっと低空飛行ぎみだった私の成績がどんどん上がり始めたんです。その結果、それまで受験に20連敗くらいしていたのにも関わらず、最後の年の受験では受けた大学全てに合格することができました。
それはすごいですね~。
浪人して数年間、大学というのは私を受け入れてくれない場所なんだろうと勝手に思い込んでいましたが、実はそうではなかった。自分の心が変わっただけで、ちゃんと向こうから門を開けてもらえたではないか。つまり、自分の心が変われば周りの状況も変わるということ。世の中に起こる全ての出来事は、自分の心が決めるものなのだと、身をもって学んだわけです。そんな実体験から、医学の道、とくに心と体の医学=心身医学を目指していこうと本気で思うようになったんですね。
もとは強い動機もなく、ご両親の勧めに従って医学の道に進むべく歩き始めた。そして、浪人生活という長いモラトリアムの期間にご自身と徹底的に向き合われた結果、本来目指すべき「道」に気付かれたということでしょうか。
ええ、そうですね。それに当時、池見 酉次郎(いけみ ゆうじろう)先生※1や桂 戴作(かつら たいさく)先生※2という、私が憧れるドクターがいたことも、心身医学を目指す大きなモチベーションになりました。彼らは“病気を身体面のみならず心理・社会・環境面も含めて全人的にみていく”という「日本心身医学会」の礎を築きあげた心身医学のパイオニア的存在だったんです。

池見先生は、仏教の行法や気功も取り入れながら、セルフコントロールを提唱されました。また末期癌の宣告を受けながら、生きる意味や生きがいについて考え、生活スタイルを転換して癌を克服したケース、癌の自然退縮例についても数多く研究されていました。今ではエネルギー医学と言われるようになってきた代替療法やヒーリングの力を借りているケースもその中には多かったわけです。しかし、そういう研究をしていると、宗教かぶれという批判も随分受けていたようです。

※1 池見 酉次郎(いけみ ゆうじろう)……九州帝国大学医学部卒業。昭和35年(1960年)に日野原重明氏らと共に「日本心身医学会」を設立し、初代理事長となる。日本の心身医学、心療内科の基礎を築いた草分け的な日本の医学者。「セルフコントロールの医学」「自己分析」「心で起こる体の病」「心療内科」など著書も多数。
参考ページ:http://h-kishi.sakura.ne.jp/kokoro-107.htm

※2 桂 戴作(かつら たいさく)……元日本大学医学部教授。日本心療内科学会名誉理事長、「日本心身医学会」理事等を務める。多くの心療内科医や心理士を育成し、心身医学の発展に多大な功績を残された医学博士。
へえ、面白い。公式HPによると、「日本心身医学会」の前身が生まれたのは1959年で、本会が設立されたのが1975年となっています。今でこそヒーリングという概念はだいぶ一般に浸透してきましたけれど、そんな時代に眉唾ものとして扱うのではなく、治療の一つの可能性として真摯に受け入れるような頭の柔らかいお医者さんがいらしたとは驚きです。

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