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  2. 第16回「臓器や組織、細胞、ウィルスからのメッセージを通訳してお伝えする」というのが、私の診療の特色といえるでしょうか。

第16回
ええ。西洋医学がどんどん発展していく一方で、古代のシャーマンのような治療もまだ根強く行われていたような時代だったと思います。まあもともと医学というのは、祭祀や儀式から発生したものでもありますし、むしろ昔のほうがヒーリングは当たり前に実践されていたのではないでしょうか。
なるほど、そうかもしれませんね。学生の頃からそんな一風変わったお考えをお持ちの山本先生でしたが(笑)、卒業後は思い切り西洋医学の世界に身を置かれていたんでしょう? 
そうですね。大学を卒業してからすぐに東京医科大学病院の内科に9年、内科医として勤務していました。西洋医学の病院ですから当然、抗生剤も使うし普通に治療していましたよ。“科学”とは“分けて考える”という意味ですが、医学も心と体を分けて考えることが正しいというのが当時の風潮でした。20歳の頃の体験から心と体は別物ではなく『心身一如』を追求しようと考え続けてきた私には常に抵抗がありましたね。医学・医療は、物質的な次元での発展を目指すのはもちろん大事だけれど、同時に心の部分を含めてトータルに考えることは絶対に必要だろうと。

そうした思いが具体化するきっかけとなったのは、大学の同級生降矢 英成(ふるや えいせい)先生※3という相方との出会いでした。心と体だけでなく、医科と歯科、東洋と西洋を繋ぎ、世界の伝統的医療の優れたところも学び統合していくトータルな医学、“ホリスティック医学”を目指そうと、彼と意気投合して一緒に「ホリスティック医学研究会」※4を医学部の卒業直前に立ち上げて活動を始めました。

※3 降矢 英成(ふるや えいせい)……東京医科大学卒業後、LCCストレス医学研究所心療内科、帯津三敬病院などを経て、ホリスティック医療の実践の場として赤坂溜池クリニックを開業。日本ホリスティック医学協会副会長。

※4 「ホリスティック医学研究会」……1985年に東京医科大で結成され、1987年に「日本ホリスティック医学協会」として正式に設立される。“人間や地球、生命まるごとの医療を目指す”という活動理念を持つNPO団体として、現在は帯津三敬病院の帯津良一先生が会長を、アンドルー・ワイル氏や安保徹先生などが顧問を務める。
ということは、研究会では本領を発揮されていたでしょうが、大学病院では日々、葛藤されていたわけですね。
まあそうですね。とはいっても、現代医学の病院の中でも漢方のように心と体を分けずに診ていくジャンルも見直され始めていましたから、何とか自分の生きる場所を見つけて仕事をしていましたよ。また、私の上司が、私のこういう性格を見抜いてくれていたのが幸せでしたね。私の所属していた内科は、内分泌や免疫系の病気を担当するところでしたので、リウマチや喘息の重症なケースにはステロイド剤を使用します。ご存知のようにステロイド剤は長期に使っていくと副作用がありますので、何とかステロイド剤を軽減できないかというテーマがありました。そこで、漢方薬に注目して、どんな風に働くのか、“漢方を科学する”という試みが始まったところだったのです。

私の上司が、「柴胡剤(漢方薬)の作用機序と、難治性喘息に対するステロイド剤軽減効果」という研究課題を与えてくれて、その博士論文で学位をいただきました。今思えば、西洋と東洋の医学を橋渡しするような領域を研究できて、自分の目指す方向性を見失わずにいられるような懐の広い環境にいられたのだなと本当に感謝しています。
もし山本先生の想いを全く生かせない環境だったなら、西洋医学に対して絶望されていたかもしれませんよね。それで、大学病院に9年間勤められた後はどうなさったんですか?
はい、このクリニック(神之木クリニック)を天から授かりまして。
天から授かったとはどういうことですか?
日本ホリスティック医学協会立ち上げの頃、『ホリスティック医学入門』という本の共同執筆を始めたのですが(刊行は1989年)、私が担当したのは、「ホリスティック・スペース・プロジェクト」という部分でした。その構想内容は、「都会の真ん中でホリスティックな医療の情報発信する場を、都会から少し離れた郊外に学びの場を、そして自然溢れる山奥に癒しの場をつくる」というものでした。でも当時はその構想をすぐに具現化していくような経済的基盤もなく、いつか実現したいという半ば夢物語のように時は過ぎて行きました。それが8年後の1995年にいっぺんに実現したんです。

新潟県に三川村(現在の阿賀町)という白鳥の飛来する自然豊かな村があるのですが、高齢だったお医者さんが閉院して、当時無医村になっていたんです。そこに、地元の篤志家が、主にリウマチやアトピーを対象にした特徴的な医療施設を建設されて、そこの副院長に招かれたんですよ。院長になられた神山五郎先生という有名なドクターがわざわざ迎えに来てくださって、「どうぞあなたの好きなように診療なさってください」とおっしゃるんです。これで「山奥に施設を作りたい」という自分たちの夢が一つ叶う瞬間がやってきたなと。でも、そんな有難い申し出をいただきながら、実は20分間迷ったんですけどね。
人生を左右することになるかもしれない大きな選択に、20分間で答えを出したのなら決断が早いような気もしますが(笑)。とはいえ、願ったりかなったりのオファーなわけですよね。何故わずかな時間でも迷われたんですか?
自分の夢が叶う時というのは、「本当にこの自分にそれだけの資格があるんだろうか」と一瞬ひるんでしまうものなんですね。でも、そんな自分の中にある壁を20分で乗り越えまして(笑)、週に一度の頻度で施設に通うようになったんです。そして、その半年後に今度はこの横浜にある神之木クリニックを授かりました。
お~! まさに以前本に書かれたという、「都会から少し離れた郊外」にある「ホリスティックなスペース」ですね。
そうなんです。もともと神之木クリニックのあるエリア一帯は、獣医科医院を開業されている獣医の平田吉治先生のお父様が所有されていたものでしてね。平田先生から1990年頃に「いずれ自分が相続するようになった際に、相続税で先祖から受け継いだ土地を手放さなければならなくなる。それなら何か後世に残る皆のためになる施設を作りたい。何かいいアイデアはないか?」との相談を受けたのです。そこで、お金と土地はあるのでアイデアを欲しいという獣医さんと、お金はないけれどアイデアはあるという人たちがタッグを組むことになったわけです。
「お金はないけどアイデアを持っている人たち」の中にいたのが山本先生ですね(笑)。
そうそう(笑)。中心になったのは、鍼灸師の石川家明先生と、建築家の尾竹一男さんの2人で「福祉マンション研究会」のもとに有志の方々が多く集まりました。まだ介護保険の始まる前で、国が打ち出したゴールドプラン(高齢者保健福祉推進十か年/1989年制定)を活用して、市民運動の考え、弱者の視線でアイデアを練っていったわけです。高齢者が安心して入居できるような全戸バリアフリーの集合住宅を作ろう、市が家賃を半分負担するシステムや、使いやすいトイレ、バスのハード面に加え、介護や安心のソフト面を考えると、医療がどうしても必要だろうということになりました。そこで、ホリスティックな医療をしようとしている私と降矢先生、2人に声がかかり、研究会に参加することになりました。マンションは8階建てで、その4階にクリニックと鍼灸院を併設しようということになって、クリニックに常駐してくださる医師も同時に探していました。
え~? 山本先生は院長になろうとは思われなかったんですか? ご自分がホリスティック医療に精通されているお医者さまなんですから、まさに適役ではないですか。それなのに、他の先生を探すだなんて。
それが、当時は全く思わなかったんですよね。むしろ、ホリスティックな医療を思う存分に実践してみたいというお医者さんが見つかったら、神之木クリニックでその夢を実現していただけるようにサポートをするつもりでした。というのも、私はまだ大学病院での研究を続けたいと思っていましたし、辞めるにしてももう少し病院にご恩返ししてからにしようと心に決めていたからです。

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