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  3. 一般の方々が何かの仕事をしているように、行者は神仏への祈りを仕事にしているといういわば祈りのプロでもあります。

第20回
山口さんが修行に入られている時には、どんな生活をされていたんですか? またどんな行をなさっていたんでしょう。
主に今お伝えしたような生活をしながら、祈りの方法や呪文、法印の使い方などを学んでいました。私個人の行としては病人の介護を自分に課していましたね。すべての用事が終わる夜10時に加持を行った後に就寝。夜中1時に起きてまた加持を行い、3時半から、朝の拝神が始まるまでの間に般若心経300巻をあげていました。こうした個人で行う行の内容や期間などは自分で決めています。

*加持:真言密教で行う呪法(じゆほう)。手で印(いん)を結び、口に真言を唱え、心に仏・菩薩(ぼさつ)を思い浮かべて、仏・菩薩と一体になり、願い事の成就や病気平癒など、現世利益(げんぜりやく)のために、仏の法力による加護を祈ること。
生半可な気持ちでは修行に挑むことはできなさそうですね。でも、もし希望すれば誰でも修行できるものなんでしょうか?
行者の修行自体は、受け入れ可能な場所を探せば誰でもできるのではないでしょうか。でも、蛇の倉七尾山での修験者になれるかどうかは別の話です。というのも、修行に入るには、まず山を開かれた先生の許可が必要だからです。実際に、これまでにも希望者はたくさんいましたが、一人一人の魂を霊視する先生から『まだ時期が来ていない』とか、『あなたは地元で仕事をした方がいい』と断られるケースが多々あったようです。反対に、修行が必要な方は『〇年ここに入りなさい』と伝えられることも。修行後も出家して行者になる人、在宅信者として普段は地元で普通の仕事をして、祭りや神様に呼ばれた時だけ山に入るなど、色々な方がいらっしゃいます。
修行というのは、こういう修験の山に入らないとできないことなんでしょうか。自宅で行うのは無理ですか?
神様のそばにいることで、何もせずとも日々ご神気をいただける、というメリットが山にはあります。病院で治らない病気を患っている人が、自身の闘病のために行に入るケースもあるんです。でも、自宅でたとえば毎日5時に起きて般若心経を100巻あげると決めたら、それを続けてみる。そうして祈りを自分に溜めることで、魂を鍛えることはできます。
行を始めた人が、「私は晴れて行者になりました」と言えるようになるのはどのタイミングなんでしょう?
『先達』という資格を得た時に、初めて正式に『自分は行者である』と言えるのかもしれません。それには、一人で山に入り道に迷ったとしても、特別な道具を持たずして自分の身を護れるよう法力を身につけ、身体すべてを生きる道具として使えるようになることです。余談ですが、行者のあの独特の衣装にも1つ1つ意味や役割があるんですよ。腰につけた動物の革は、どんな切り立った岩の上でも座れるというクッションの役目を持っていますし、腰の両側に結んでいる貝緒(かいのお)はザイルとして利用でき、頭の兜巾(ときん)は、頭を守るヘルメットとしてだけでなく、コップ代わりにも使えます。つまり、すべて山の中でも一人で生きていけるようなフル装備だというわけです。
『先達』というのは?
山に入る際に人々を導き、案内する人のことを先達と言います。もとは天皇や皇族が行幸される際に、その身を守りご案内するために山伏が天皇様の前を歩いたのが先達の始まりだと聞いています。
日本各地に修験道の行場があると思いますが、山口さんが修行に入られた蛇の倉七尾山というのはどんな特徴がある場所なんでしょう。どこか他の行場と違う点はありますか?
他の修験の山を知らないので比較は出来ないのですが、1つ、蛇の倉七尾山が他の修験の山とは趣きが違っているところがあります。それは、ほとんどの修験道が険しい山の中での修行を主とし、そのため古くは女人禁制をしいていましたが、蛇の倉での修行は、もちろん山に入る人もいますが、人々の暮らしの中にこそ修行があるというのが基本の姿勢で、そのため、女性の行者育成にも力を入れています。ですからここでは『修験道』といわず正式には『修験節律根本道場』と申しています。実は、蛇の倉山が一般の人に開かれてからまだ70年くらいなのですが、それ以前は、聖者や霊眼を持つ人しか入れない閉ざされた行場だったんです。でも、その秘された山を女性も修行できる行場にされたのは、戦後この山を開かれた先生のお力あってこそだと思います。
各地にいらっしゃる行者さんたちは、横のネットワークを持っていますか。お互いに山を行き来して情報交換をすることもあるんでしょうか?
そうですね。それこそ昔の人は野生の勘も霊感も優れていたので、『何月何日にここで会おう』とか、『この日時に護摩を焚いてほしい』とか、すべて霊感によって通信をしていたそうです。それで蛇の倉が開かれたときには、誰も知らない山中の僻地にあるにも関わらず、どこからともなく霊力の高い霊感者が集まってきたといわれています。今でも力のある行者同士は、実際に会ったり電話をしたりしなくても、霊感でコミュニケートしていますよ。以前ある有名なお寺のお坊さんが、自分のお寺の神様が今、蛇の倉にいらっしゃるとお見えになったことがあります。夏になれば伊勢講の方、石鎚山の講の方など、全国から有名な神社、仏閣の講の方々がお越しくださいます。ほかにも普段は地元で普通に生活をされているようですが、一目で徳の高さを感じさせるような霊感者の方々も沢山来られています。わざわざ辺鄙な場所まで時間をかけて足を運ばれる皆さんは、それぞれに何かをキャッチしていらっしゃるんだと思います。

講:同一の信仰を持つ人々による結社。神社・仏閣への参詣や寄進などをする信者の団体。

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