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  3. 一般の方々が何かの仕事をしているように、行者は神仏への祈りを仕事にしているといういわば祈りのプロでもあります。

第20回
イエスが生まれた時には、世界中から賢者が贈り物を携えてやってきたと聖書に書かれていますよね。彼らはその何年も前に神の子が生まれることを察知して自分の国を旅立ってきたわけですが、そういう高い霊的能力を持った方は、人知れず日本にもたくさんいらっしゃるんでしょうね。
さて、ここからは神仏への祈りや先祖供養についてお話を伺いたいと思います。まず、そもそも「祈り」はなぜ必要なんでしょうか?
私が山で教わったのは、「祈り」は万物万象の霊長であり、自然界の調整役を受け持っている人間の大切な役目であるということ。地球のみならず、宇宙の環境を整えるためにも重要であるということです。というのも、人間の体に沢山含まれている水分が祈りの言霊の響き=波動によって良い状態に整えられ、それによって周囲にもその波動が伝わっていきますから。まず一人が祈り、やがて100人、1000人……と連鎖していくと、その方々のいる場所は空気が綺麗になっていくんですね。そして木々や水、大気、土など全てが影響を及ぼし合って、みんな綺麗になっていくんですよ。
昔は女性の33歳の厄年、男性41歳の厄年までに35万巻のお祈りをするというのが、万物霊長の役割であり約束事だったそうです。人間は『いただきます』と言って食事をいただきますが、それはいろいろな生き物の命をいただいているということ。その命に対する感謝とともに、万物万象の育みとなる祈りを捧げて、自然にお返しをしていくんですね。
なるほど。利他や感謝の気持ちで祈りをするのが大切だということですね。祈りというと、どうしても自分のお願い事をしてしまうという人は多いと思いますが。
もちろん、ご自身のためのお祈りはどんどんしていただいていいんです。それが祈るきっかけにもなりますから。利他のためにやっているようでも、まず祈っている自分自身が言霊の良い波動を吸収しますから、結局は自分のためになっているんです。私自身は修行に入った頃、自分の丹田や細胞の隅々にまで祈りの言霊が行き渡り、それによって精神力が強くなったり気持ちが安定して穏やかになった、ということをまず実感しました。とくに今この東京や都会で暮らす人には、自分の身を守るためにも必要なのではないかなと思います。私のセラピーを学ばれた生徒さんの中には般若心経を熱心にあげられる方がいらっしゃって、もともと体が弱かったのですが今はすっかり丈夫になり、経済的にも羨ましいくらいにどんどん豊かになってきているんですよ(笑)。他にもそういう実例をあげたら数えきれないほど。私の経験上、自分を守って豊かにし、幸せにするということに一番手っ取り早いのが「祈り」であると言えますね。
行者さんの場合には、祈りの意味合いが一般とは少し違うような気がします。以前、山口さんが『行者は1万巻、2万巻の祈りを自分に溜めて、それを法力に変えて人を癒したり霊を祓ったりする』と仰っていましたよね。祈りを人のために使うとはどういうことですか?
行者は法印を切り、呪文を唱えることで様々な御祈願を成就に導くような修行をしています。それには魂の力や念力を強くすることが必要なのですが、そういった力を強くするのが「祈り」なのです。ですから行者は修行中、いかに祈りをあげられるかということに日夜、専念しています。というのは、祈りが自分の魂に織り込まれていないと、何万巻の経文を唱えたとしても、その祈りは神仏に届く前にほとんどが自分の中に吸収されてしまいます。蛇の倉では通常、般若心経を祈りの経文として唱えていますが、たとえば7巻のうち1巻だけが神様のところにようやく届き、残りは自分の細胞に入ってしまう。そうイメージしていただけると分かりやすいでしょうか。誰か病人の方のために『1万巻の般若心経をあげるので、その祈りの力で病人を助けて下さい』と神仏に祈ることがありますが、その場合にも、まずは自分の細胞の中に十分な祈りの力を貯金しておくことが必要なんです。そうしてその1万巻の祈りを神仏に受け取っていただく代わりに、病人を助けていただく、ということをするわけです。

ですから、祈れば祈るほど、祈りの回数を重ねれば重ねるほど祈りの力は自分の中に溜まり、神仏を動かす念力となります。それが自分の細胞の隅々にまで届いたときに初めて、ようやくその祈りによって強くなった念力や法力を人のために使えるようになるんですね。誰かのための御祈願や滝行、護摩焚き、これらはすべて、念力が強くないと出来ません。たとえ知識として九字の切り方を知っていたとしても、ただ経文を口に出すだけ、印を結んだだけでは現実に影響を及ぼすほどの力を発揮することは不可能です。霊を鎮めたり、災いや邪気から身を守ったりするにもそれなりの念力が必要です。行者はその念力を高めるために、何万巻も祈りをしていくわけです。
祈りを唱えるということについてなのですが、修験道では神様にも仏様にも般若心経を唱えていますよね。また祝詞やご真言も唱えていらっしゃいます。一般の私たちが祈るときにも、こうした祈りの言葉が必要なんでしょうか?
昔からずっと唱えられてきた祈り言葉の「音」には、もう特殊な力が宿っているんですね。ですから、その言霊から放たれる音のエネルギーは、神仏に届きやすいということなんじゃないでしょうか。般若心経はオールマイティーといいますか、これを唱えておけば間違いないという特殊な経文のようですから、覚えておいて損はないと思います。

また、たとえば行者の私たちは、観音様なら「オンアロリキヤソワカ」、弁財天なら「オンサラスバテイエイソワカ」といったように神様のお名前をご真言として唱えます。神様、神様と沢山お名前を呼びかけて振り向いていただくということなんですね。一般の方が唱えていただいても差し支えないと思います。

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