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  3. 一般の方々が何かの仕事をしているように、行者は神仏への祈りを仕事にしているといういわば祈りのプロでもあります。

第20回
それは今まで気付きませんでした。先祖はお供えした食べ物のエネルギーを実際にとっていくんですね。ところで山口さんは、これまでご自分の先祖供養も、行者として人様の先祖供養も沢山されてきたと思いますが、何か興味深いエピソードがあれば教えて下さい。
私が蛇の倉に通い始めた頃の話です。私はそれまでに鍛えてきた霊力を使ったり、人に頼んで大きな法要をしたりしながら、できる限り自分の家の先祖供養をしてきました。ですから、先祖供養はもうこれでほぼ完璧だろうと思っていたんですね。そんな折、蛇の倉の先祖供養の大護摩に初めて参加することになって、ご供養のための護摩木を書いてお護摩に入れたんです。その時は、父方と母方のご先祖のぶんを各3本ずつ(先祖代々の霊位、水子の霊位、有縁の霊位)、さらに自分にご縁のあった人の護摩木を7本で、合計13本入れました。すると、奈良で護摩を焚いているのと時を同じくして、群馬にいる姪っ子、甥っ子に突然ブツブツと湿疹が出始めたんです。そして、その湿疹がポロポロとはがれた後、最後に金や銀が身体から噴き出てきました。甥っ子、姪っ子を通じて先祖の毒が解毒されたんだと思います。同時に、内部にまだこんなにも浄化されてないものが溜まっていたのかとびっくりしました。他の誰よりも熱心に先祖供養をしたと思っていたのに、足りていなかったんです。

つまり、以前しっかり供養したからもうそれでOK、ということではないんですね。毎日生きていれば、無意識のうちに汚れは溜まるし悪いこともやってしまいます。すると自分の魂のエネルギーだって落ちてしまいますよね。そうならないように汚れを日々浄化して、もとのクリーンな状態に戻すためにも、供養をやり続けることが大事なんです。昔から一家の長男が大事にされるのは、その家の墓を守っていく役目があるから。私は先祖供養の大事さを知るようになってから、子孫に受け渡すまで家族の墓を守り続けるという役目を担っている人が、大事にされるのも当然なのかなと思うようになりました。
霊力を使って先祖供養をしてきた山口さんでさえ、護摩焚きの時にまだ供養が足りていなかったのを実感したと言われましたよね。我が家の場合、父が霊や見えない世界が嫌いで、先祖供養に全く興味がなく、仏壇に手を合わせることもお墓参りすることも一度もなかった人だったんです。ですから、光田家はどれくらい供養をすれば他のご家族に追いつくのかと、暗澹たる思いがします。それをリカバーするべく、光田家の魂の長男として私も出来る範囲でやり始めてはいるんです。でも、そういった習慣がこれまで無かったので、忘れてしまう日も多々あるという。十分に先祖供養が行き届いたのかどうかが分かるような、目安らしいものはあるんでしょうか?
目安というのは家によって違いますね。その家の先祖が何をしてきたか、どういう徳を積んできたかによるんです。徳を積んだ先祖がいるお宅の先祖供養は楽でしょう。いっぽう先祖に戦国時代の武将がいて、多くの人を殺めてきたために深い念を残したというような事実があるのなら、供養には時間がかかるでしょう。ただ1つ言えるのは、人生に行き詰まりを感じている時や、何か困ったことが起きている時は先祖供養をすると良いということ。先祖供養をすることで先祖のエネルギーが底上げされるので、現実的に何かが変わってきます。ホ・オポノポノにしろ『ありがとう』を何万回唱えるということにしろ、それで自分の魂のクレンジングや過去の自分のネガティブな記憶を消去していくわけですよね。そうやって自分の魂の宿題というかカルマを解消しつつ、さらに幸せに生きていくために先祖供養をしていくというのが理想的。神様に何かお願いごとをしたとして、神様からの霊波はなかなか受け取れませんが、直に動いてくれる先祖から恩恵を受けることができます。

たとえば、ここに同じような状況にいる二人がいたとします。ともに同じように頑張って仕事をしながら、気学の方位をとり、神社に行くなど見えない世界にもアプローチをしている。それなのに、一人は出世してもう一人は何も変わらない。それは何故かというと先祖の徳が違うから。先祖の供養が足りているかどうかによって大きな差が出るんです。
ということは、徳のない先祖のもとに生まれてきてしまったら、なおさら先祖供養が必要になってくるわけですね。
実は、徳のない家はそういうことにすらまず気付けないんです。そして、そういうお宅は、先祖供養をしても先祖が光やエネルギーを受け取りにくいんですね。でも、もし供養の大切さに気付いたら、まずは心をこめて線香を焚き、手を合わせることから始めてみてほしい。そして地道に続けていくことが大事です。続けていれば必ず良い方向へと現実が動いていきますから。
先ほどお話にあがったお護摩についても質問させてください。家庭で行う祈りも重要ですが、もっとダイレクトに思いや願いを神仏に届ける方法というのが「護摩焚き」なんですよね。
その通りです。細長い木の板に、先祖供養や御祈願の願意を書いていきます。神様にこの護摩木を受け取っていただくための火を使ったご神事をするのが護摩焚きです。行者の法印や念力に加え、山の力、蛇の倉の神様の力などの総合力でもって行うわけですから、それはパワフルです。通常は、御祈願護摩とご供養護摩と分けて行います。

私は何としても蛇の倉の護摩は絶やしたくないと思っています。そのために行者の数を増やし、一人ひとりの行者が力をつけていかなければ。世の中に未浄化霊が多すぎますから。水子の霊も多いですよ。天に上がれない霊があまりに多くて地球が重くなっていると言われているくらいです。私たち一人ひとりの祈りも全く足りてないですしね。これからは行者育成にも尽力していきたいと思っています。

そういえば、御祈願護摩のエピソードにこんなことがありました。護摩木を炎の中に入れる前に、行者は一本一本それぞれに印を切っているんですが、私が担当をしていたときにどうしても印を切れず、法印が入らないものがあったんです。そこに書かれた願意は何だったのか読んでいないので分かりませんが、こちらとしては神様に願意をお届けするのが仕事ですから、何としてもということで印を切り、炎の中に入れました。あとは神様にお任せするだけですから。この一件から分かったのは、すんなり通るものとそうでない願いがあるということでした。
もし御祈願護摩を書いて願意が通らなかったとしたら、それはそれで神様の思し召しだということですね(笑)。
そうですね。ただ、その結果も受け取り方によっては良し悪しが変わってくるものですよね。後々これで良かったんだということもありますし。その人にとって一番いいと思うことを神様は選んでいらっしゃると思うんです。たとえば、こちらの大学に進学できなくて悔しいと思っていたけれど、合格した大学で一生の伴侶を得ることができたとか。その時には願いを聞いてもらえなかったとしても、長い目で見て良い結果に導かれるようにと神様が判断してくださっていると思います。
最後になりますが、読者にメッセージをいただけますか?
私はこれまでいろんな宗派の修行を垣間見てきましたけれど、蛇の倉七尾山では「作務」を一番重要視していました。「作務」というのは、行うことであり、働くこと。それに一生懸命に取り組みながら生きていくということです。それを教えているのが修験道なんですね。実は、皆さんはすでに行をしているのと同じなんです。日々、人間関係やお金などの問題を抱えながら、社会の中で秩序を保ち、周囲と仲良くしながら生計を立てていく、ということをしているわけですから。蛇の倉の場合、たとえ3時に起きて行をしたとしても、自分の部屋が乱雑だったり万年床だったら、それは行としては問題あり、となります。つまり自分の身の廻りや生活を正すこと、毎朝起きたら布団を上げることも行の1つなのです。普段の生活をきちんとし、同時に「祈り」を取り入れて、神仏を身近に感じていただければと思っています。そうすることでご加護がいただけて、より心豊かに生きていけます。

私もこれまで大変な人生を歩んできましたが、神仏との出会いがなかったら一体どんなことになっていただろうと、想像するだけで恐ろしくなります。きっと借金地獄から抜け出せないまま、病気にでもなってとっくに命をなくしていたでしょう。でも、そんな私のそばにいつも神仏がいてくださって、手助けをしてくださったから、ここまで来ることができました。これからも神仏には甘えさせていただきますが、そのぶんいつも感謝を忘れずにいたいと思います。皆さんも神様や仏様、そしてご先祖様を味方につけて、もっと楽しく生きてほしい。そう心から願っています。

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